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第2話 呪縛から逃げたい午後

last update Last Updated: 2026-02-18 16:10:00

脳内に浮かぶ彼の指使いに合わせながら、僕は自身に指を這わせる。優しくなで、時に激しく上下させる。自分で触れているはずなのに、彼に触れられているように感じた。錯覚なのは、わかっている。けれど、彼に出会う前の自慰よりも快楽を感じていた。

何度目かの絶頂の後、僕は荒い息のまま脱衣所に向かった。収まることを知らない下半身の疼きから、解放されたかった。

肌に擦れる布の感触が、完全には引いていない熱を呼び戻す。敏感すぎる感覚を恨めしく思いながら、僕は服を脱いで風呂場に入った。

熱いシャワーを頭から浴びていると、体内に残っている衝動がゆっくりと鎮まるのを感じた。シャワーの音を聞きながら、あれは事故だったのだと、心の中で自分に無理矢理、言い聞かせる。

ざわついていた心が落ち着きを取り戻し、僕はシャワーを止めた。その瞬間、背中を水滴が流れ落ちていった。背筋を這う相沢さんの指の感触が、一気に蘇る。

「ひぅっ……!」

思わぬ声が漏れ出て、咄嗟に口に手を当てる。

「くそっ……!」

悪態をつき、頭をかきむしる。シャワーだけでは、解放されないのか。

(……そうだ! ジムに行こう!)

こういう時には、体を動かすのが一番いい。

おろし立ての服に着替えた僕は、車で馴染みのジムに向かった。

ジムの受付で会員証を見せて、更衣室に移動する。持ち込んだ服に着替えて、トレーニングスタジオに入ると、いつもより利用客が多い。今日が土曜日だから、というのもあるのだろう。

「相馬さん、こんにちは! 今日は、どんなメニューにしますか?」

背の高い男性に声をかけられ、わずかに肩を震わせた。のどが締まり、息が止まる。

「……こんにちは」

僕は、何気ないふうを装って、にこやかにあいさつを返した。ぎこちない笑顔になってはいないかと、気が気ではない。でも、彼は気づいていないのか、僕の様子には触れなかった。

声をかけてきた男性は、インストラクターの九条《くじょう》さんだ。僕が初めてこのジムに入った時に、丁寧に教えてくれたのも彼だった。

そんな親切で優しい九条に、一瞬――ほんの一瞬だけ、相沢さんを重ねてしまった。声の高さも背丈も体躯も、性格さえ違うのに。相沢さんを忘れるために、ここに来たというのに。

僕は、九条さんに走りたいだけだと告げ、ランニングマシンが並んでいるエリアに行った。九条さんは、何かあったら声をかけてくれと言って、他の利用者のもとに歩いていく。

ランニングマシンには、数人の利用者がいた。でも、他の器具に比べると、人よりもマシンの方が多いと思えるほど空いていた。

人目につかないように、端にあるマシンを選んで走り始める。頭を空にして走っていると、体内に居座り続けていたどろりとした感情が、スーッと消えていくのを感じた。

これで、ようやく解放される。そう安堵した僕は、体力の限界まで走ろうと決めた。

けれど、それがいけなかった。足は、次第に重くなり、息が苦しくなってくる。

『……まだ、終わりじゃないぜ』

突然、相沢さんのまとわりつくような低い声が、耳の奥に響いた。

瞬間、腹の奥が何かを求めるように疼き出した。

「……っ!」

奥歯を噛みしめて、マシンの停止ボタンを押す。

(抗えないのか? 僕は……)

苦い思いを抱えながら、荒い息を整える。

「相馬さん。休憩と水分、ちゃんと取ってください。貴方は、集中しすぎる癖があるんですから、意識してくださいよ」

いつの間にかそばにいた九条さんが、険しい表情でペットボトルを差し出した。

「――っ! ……すみません、気をつけます。でも、よくわかりましたね。僕に集中しすぎる癖があるって」

自分でもあまり自覚していないのにと、九条さんにたずねる。

はにかんだ九条さんは、利用者をよく観察するのが仕事だからと言った。その言葉に、肌がざわざわとして落ち着かない。

「それじゃあ、帰ります」

九条さんとの会話を早めに切り上げ、僕はシャワールームに向かう。

熱めのシャワーで汗を流していると、空腹感を覚えた。そういえば、朝食を食べたきり、何も食べていない。

(……卵焼き、甘くて美味しかったな)

だしの効いた卵焼きが思い出された。優しげな相沢さんの笑顔が浮かび、僕は慌てて頭を振る。

どうして、こんなにも彼を思い出してしまうのか。忌々しく思いながら、美味しいものを食べて忘れてしまおうと気持ちを切り替える。

ジムから出て車に乗り込んだところで、ふと、篝火にはどんなフードメニューがあるのだろうと疑問に思った。よく訪れてはいるものの、今までフードメニューはチェックしていなかった。

確認するのは、後からでもよかった。けれど、どうにも気になってしまう。

「しかたがない、行くか!」

調査のためと自分に言い訳をして、一旦、自宅へと車を走らせる。そこから、徒歩で篝火に向かった。

バーにくり出すにはまだ早い時間帯だからか、周囲は静けさを保っていた。篝火に到着すると、扉には『OPEN』のサインプレートが下げられている。

(あ、よかった。開いてる)

僕は小さく息をつくと、扉に手をかけた。

「いらっしゃいませ」

店内に入ると、マスターの低く落ち着いた声と女性スタッフの明るい声が、同時に響いた。

僕は軽く会釈すると、カウンター席の奥に座った。

「珍しいですね。お客様が、この時間にいらっしゃるなんて」

と、マスターが声をかけてくる。

「ええ、ちょっと……ジムに行っていたもので」

僕は、詳細を省いて事実だけを告げた。さすがに、お宅のスタッフと一夜を過ごして揉めたなんて、口が裂けても言えやしない。

「最近、ジム通いしてる方、多いですよね」

どうぞと、女性スタッフがメニュー表を僕の前に差し出した。ポニーテールが似合う、人懐っこい笑顔が特徴的な美人という印象の女性だ。

僕は、彼女からメニュー表を受け取ると、当たり障りのない言葉を返すだけにとどめた。誰かと会話を楽しむ余裕は、今の僕にはなかった。

僕の心の内を察したのか、彼女は「ごゆっくり」と営業スマイルで告げて、仕事に戻っていった。

マスターも、いつも以上にそっとしておいてくれている。申し訳なく思う反面、とても気が楽だった。

メニュー表を眺めていると、誰かが隣の席に座った気配がした。それだけで、心臓が跳ねた。無意識に体が強張る。僕は、その気配を·····。今、一番会いたくない人物――相沢さんだ。

触れられていないのに、肌がざわめき、尻の奥が蠢き出す。動揺を悟られないように、気づかれないように、浅い呼吸をゆっくりと繰り返す。

「佳晴さん。もしかして、俺に会いに来てくれたの?」

と、彼が明るく告げる。その声音に、朝食の時のような妖艶さは、まったくなかった。にも関わらず、言外に逃さないと言っているような雰囲気がある。

「……ここのフードメニューが、気になっただけです」

僕は、メニュー表に視線を向けたまま、素っ気なく告げた。

「相沢君、お客様の邪魔にならないようにね」

マスターは、相沢さんにそう釘を刺す。

相沢さんは「わかってますよ」なんて言っているけれど、僕にはどうしても信じられなかった。先ほどから、ねっとりとした視線がまとわりついてくる。

「それで? ご注文は?」

「……ここにいる限り、僕には指一本触れない。そう約束してくれませんか?」

視線を相沢さんに向けた僕は、感情を抑えた声で言った。ノーと言った瞬間に、店を出るつもりだ。

「わかりました。····、そのようにいたします」

相沢さんはあっさりと承諾して、恭しく頭を下げた。

何か、含みがあったような気がする。でも、気にしてなんていられない。

「それで、ご注文はいかがなさいますか?」

と、相沢さんにたずねられ、僕はメニュー表に視線を戻した。

いつも飲んでいる甘めのカクテルを選ぶ。けれど、これに合う食べ物がわからない。少し考えて、カクテルに合いそうな軽食を作ってもらうことにした。

「かしこまりました」

と、カウンター内へと移動する相沢さん。

厨房に声をかけたかと思うと、グラスや数種類の酒などを用意し始めた。

思っていなかった展開に、僕は面食らってしまった。

カクテルは、いつもマスターが作ってくれていたからだ。この店ではマスターだけがカクテルを作るものだと勝手に解釈していた。でも、どうやら違ったらしい。

相沢さんは、長めのグラスに準備した酒を入れていく。ずっと見ていられるくらい、手際がいい。

「お待たせいたしました。チャイナブルーです」

出来上がったカクテルを僕の前に置いて、相沢さんがそう告げた。

特徴的な鮮やかな青色が、とてもきれいだ。

続いて出されたのは、プロシュートが乗ったガーリックトーストだった。

「え、これ……このカクテルに合うんですか?」

驚いた僕は、思わずそう声を上げてしまった。

「ええ、意外と合うんですよ」

どうぞと、相沢さんに勧められる。

半信半疑ながら、ガーリックトーストに手を伸ばす。決して、彼の言葉に騙されたわけではない。

カリッとしたトーストの食感が、とても心地よい。バターのコクに、プロシュートの塩味と旨味がプラスされて、食べ飽きない美味しさだ。

咀嚼し、飲み込んだところでチャイナブルーに口をつける。一瞬、相沢さんと目が合った。優しく微笑む彼の頬が、わずかに色づいている気がする。弧を描いた口の端から、舌先がちらりとのぞいている。

「佳晴さん」

甘く低い声で名前を呼ばれ、僕は彼から目が離せなくなった。体が熱い。たぶん、アルコールのせいだけではないだろう。

彼は、口の動きだけで「飲んで」と命じる。

「――っ!」

直後、僕の下半身がどくりと脈打つ。その反動で、カクテルをのどに流し込んだ。

気まずさと恥ずかしさで、彼から視線をはずす。チャイナブルー特有の爽やかさが、口内を洗い流したはずだった。なのに、どろりとしたものが舌の上に広がる感じがする。

「意外と合うでしょ?」

と、相沢さんが告げる。

仕事用の声音で、ごく普通の事を言っているはずなのに、なぜか耳の奥に響く。

「そう……ですね」

話を合わせるように、僕は肯定した。でも、実際には、よくわからなかった。

僕達の会話が途切れたタイミングで、マスターが相沢さんに声をかけた。

「五番テーブルのお客様、お願いね」

手が空いてからでいいからと告げている。

どうやら、注文された商品を持っていく、というわけではなさそうだった。他に何かあるのだろうかと、少しだけ気になる。

(……でも、僕には関係ない)

そう心の中で切り捨てた。

会話は終わったはずなのに、相沢さんは、僕の前から動こうとしない。

「……行かなくていいんですか?」

僕は、率直にたずねた。

「ええ。今は、貴方との時間をすごしていますので」

と、断言する相沢さん。

その瞳に暗い光を認めて、僕はわずかに身をすくめた。怖かったわけでも、驚いたわけでもない。ただ、体の奥が震えるように反応した。

「そ……そういう店じゃないでしょ、ここ」

取り繕うように言葉を紡ぐ。

「それはそうですけどね。でも、俺は、あんたとすごす時間を大切にしたい」

相沢さんは、真摯な声でまっすぐにそう告げた。

「な、んで……!」

心臓を鷲掴みにされたような衝撃に、僕はそれしか言えなかった。鼓動がうるさい。

「何でって、俺が、佳晴さんの事を知りたいから」

と言って、彼は僕に手を伸ばしかけてやめた。

それが、なぜか僕の心を締めつける。自分が一方的に突きつけた約束なのに。

「まあでも、佳晴さんにつきっきりってわけにもいかないか。それに……ここじゃ、込み入った話もできないし」

相沢さんは、肩をすくめてそう言うと、僕の目の前に鍵を置いた。

それは、アパートの鍵だった。僕も同じ物を持っている。

「……どういう事ですか?」

僕が訝しげにたずねると、

「個人的に話がしたいんです。俺の部屋で」

と、彼は声量を抑えて告げた。

個人的な話がしたいだなんて、きっと僕を抱きたいだけの口実に決まっている。そんなもの、受け取れるわけがない。

丁重に断ろうと、僕が口を開きかけた時だった。

「相沢君、お待ちかねだよ」

と、マスターが相沢さんを呼んだ。

返事をした相沢さんは、「また後で」と言い置いて、他の客の方へと行ってしまった。

話は終わっていないけれど、仕事中の彼を呼び止めるわけにもいかない。僕は気まずさを抱えながら、彼の自宅の鍵を見つめる。

鍵には、キーホルダーの類はなく、銀色のリングだけがついている。

(失くしそうだけど、気にしないタイプなのかな?)

なんて、何気なく考えていた。

鍵が指先に触れて、僕は慌てて手を引いた。どうして手を伸ばしていたのか、よくわからない。まさか、僕は、本当は彼を求めているのだろうか。

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